YAPC::Asia Tokyo 2015が終わった。厳密にはこれからスタッフ打ち上げの調整、動画関連、支払い関連、ブログ関連、写真関連の仕事がまだあるけど、まぁともかく山場は過ぎた。
今回は最大の大きさにもかかわらずいわゆるコアスタッフの面々とこれまで何回もボランティアスタッフをやってくれていた方達が次々と起こる予測していない事態や、主催の自分がセッションでの出番やMC等でいない時に進めなければいけない様々な事柄の指示を出してくれててものすごく助かった。もちろん自分も自分が指示を出せないとわかっているときはその前に責任の委譲や指示だしをやっていたけど、それ以上に自律的に動いていてくれたのでものすごく助かった。今回のYAPCは完全にスタッフのみんなの能力の勝利だった。
エモい話や将来の話とかはまたいつかするとして、このエントリではとりあえず日記風な感じで昨年9月末からの大まかなな流れを書いてコアスタッフの人達と一緒にどんな10ヶ月を過ごしてきたかを軽く紹介したい。上に書いたように今回のYAPCは完全にスタッフのみんなの勝利だった。どうしても矢面に立つ俺が目立っちゃうけど、そういう人達と一緒にやったYAPC::Asia Tokyo 2015だったという事を伝えたい。
2014年9月末
2014年YAPC::Asia Tokyoを終えたばかりのyusukebe氏からの連絡で諸事情により2015年のYAPC運営はやらないと伝えられる。こんなイベントの運営は酔狂でやることはあっても、義理でやってはいけない。これが仕事だったらまた別だけど、特に給料ももらってないのにこんなイベントの運営をするということは得るものも多いにしろ、決して楽な仕事じゃないし、強制されるようなものではない。「降りる」ということはもうそれ以上追求してはいけない。あとは次善の策を練りに走り回るのみ。
2014年のコアスタッフを招集。自分が主催をやらない、というオプションも検討してみたが現実的に無理そうだったので、前年のコアスタッフの中でやれる人はそのまま続けてくれるようお願いし、足りない分は前年の間に主要な任務を担当した人をさらに追加してお願いした。
Slackを設定、使えそうなので即座に課金。
2014年10月
「もうそもそもやらない」「再来年くらいまで待つ」「何も起こらなかったフリをしてなんとか2015年も同じ感じでやる」というような意見が出る中、僕は「JPAに(金銭的な)体力があり、自分にまだ最後のやる気がある今のうちに最後大花火をぶち上げJPAによるYAPCを伝説とさせたところでそれを一つの区切りにする」と主張した。
同時に、どういう形になるにしろデカい箱は用意しなければならないので、とにかく必死にあちこちのツテを頼って会場探しを開始した。そして当然条件に合う物件はほとんどない。パシフィコ横浜等がよさそうだったけど「え?2015年?2016年じゃなくて?」と「そうですよね〜無理ですよね〜」としか返せない対応。実はビッグサイトも当初は同じ対応で、一応どこかでキャンセルが出たら教えてくださいとだけ伝えてあった。これら以外の候補も含め、あちこちの会場に足を伸ばして見学した。
月イチのコアスタッフミーティングをこの頃に始める。
2015年に円ドル為替が120円以上になりそうな予感ではらはらしはじめる。
2014年10月末
キターーーー!ビッグサイトからキャンセルが出た連絡、キターーーー!方向性の見解統一のあと、ほとんどその場で仮予約+仮予約用料金を支払い。
会場が決まるということは会期日程も決まるので、その場でまず宮川さんに「トークとかしないでもいいけどそのタイミングで日本にいてください」指令、快諾をもらう。同時にBrad Fitzpatrick、Larry Wall、CONBU、カメラマンの八木さんにもスケジュール調整の打診。
ほぼ同時に他の類似カンファレンスの誰にも先に日程をアナウンスされないようすぐさまデザイナーにティザーサイト作成を依頼し、即座に公開。もう後に引けなくなる。
2014年11月〜12月
サイトおよびスポンサー用の資料を作る時間。ここでスポンサーメニューをとにかく作り込む。コスト計算をしつつ、それに見合う収入を得るためにはここでスポンサーメニューを作り込むしかないのでここは重要。
色々逆算して タスクを出し始める。ロゴ、本番サイト、スポンサー用資料等のデザイン等もガンガン発注。
来て欲しいゲストはツテがある人もない人もとにかくとりあえず予定を調べるために連絡。実はものすごいネット界の大物も候補にいたのだが、交渉の結果予定が合わずにバラしとなった。
これまでにない集客を見込むので、チケットの売れ行きが心配になる。販促企画をuzullaさんに託す。銅鑼パーソンのように身になった企画もあったが、最終的にチケット売上が素晴らしかったのでお蔵入りになりかけた企画も…
一部早めのスポンサーめぐり。
海外ゲスト用に「Guide To Invited Guests From Abroad」、万が一海外のスポンサーが付く時のための「An Introduction For Prospective YAPC::Asia Tokyo 2015 Sponsors」等の資料も作る
場所が場所なのでホテルがないとスタッフは当然辛いし、一般客も辛いはずなので旅行代理店に相談してホテルを抑えてもらう。
2015年1月
スポンサー候補に面会の連絡を出しまくる。さすがに完全なコールドコールはしないものの、スポンサーしてほしい回社内であれば、ほとんど面識のない人にもメールアドレスさえ手に入れられればとにかく連絡しまくった。アポを取り、説明の機会を設けさせてもらう。
懇親会、コーヒー、弁当の心配をしはじめる。懇親会は二転三転し、本当は300人くらいでやろうと思っていたのを、会場のまわりにあまり飲める施設もないのでフルパワーで700人入る会場を借りるように変更する。もっとスポンサーを取る事を目指す。
2015年2〜4月
スポンサーめぐり。 フィードバックを元に少しずつ企画をブラッシュアップ。決まっていくスポンサー枠、企画からタスク・発注開始。スポンサー申し込みは3月末で基本的には終了。そこから予算がより現実味を帯びたモノになっていく。
それまでもずっと相談していけれどもそろそろ個人スポンサーのノベルティを決めないと…! そろそろスタッフに渡すTシャツおかを決めないと…!
ボランティアスタッフ募集。CONBUと軽く相談、スタッフ数等の調整。ホテル申し込み受付。
2015年5月
スタッフ顔合わせ。最終的にCONBUも含め90人近くになってしまったので一回で集まるのは無理だと判断して2回にわけて顔合わせした。顔合わせしないでも別にイベントは運営できるんだけど、ボランティアスタッフがイベントその日だけに集まってすぐ解散すると関係性を作るチャンスも何もないのでつまらないんじゃないかと思って必ず顔合わせと打ち上げは集まれるだけ集まってもらうようにしている。
2015年6〜7月
正直覚えてない。YAPC::NAいったりOSCON行ったりしている間にスタッフに色々託したりなんだり。
2015年8月
とうとう今月じゃん!最後の最後の発注いろいろ。慌ててもしょうがない 。そして本番へ…!
実際にYAPC::Asia Tokyo 2015がどうだったかはこちらのブログまとめ、gihyoスペシャルレポートやTogetterまとめをどうぞ!
終了後、ぼろぼろになりながらサイゼリヤおよびチムニーで軽くうちあげ+夕飯、あとはもう歩く気力さえなくタクシーで帰宅。夜は興奮してうまく寝付けずストーカーのようにあがってくるYAPC::Asia Tokyo関連のブログ等をチェックしまくった。
というわけで終わった。もう明日起きても「ああ、来年の会場を今決めなきゃ…」などというプレッシャーはない。Slackのアラートもほとんどならない。幸せだ。YAPC::Asia Tokyoの運営は楽しかったけど、とりあえずは惰眠をむさぼりたい。
来てくれた皆様、最後に拍手をしてくれた皆様、ありがとう。将来の話に興味のある方は是非連絡をいただければと思います。
今回は最大の大きさにもかかわらずいわゆるコアスタッフの面々とこれまで何回もボランティアスタッフをやってくれていた方達が次々と起こる予測していない事態や、主催の自分がセッションでの出番やMC等でいない時に進めなければいけない様々な事柄の指示を出してくれててものすごく助かった。もちろん自分も自分が指示を出せないとわかっているときはその前に責任の委譲や指示だしをやっていたけど、それ以上に自律的に動いていてくれたのでものすごく助かった。今回のYAPCは完全にスタッフのみんなの能力の勝利だった。
エモい話や将来の話とかはまたいつかするとして、このエントリではとりあえず日記風な感じで昨年9月末からの大まかなな流れを書いてコアスタッフの人達と一緒にどんな10ヶ月を過ごしてきたかを軽く紹介したい。上に書いたように今回のYAPCは完全にスタッフのみんなの勝利だった。どうしても矢面に立つ俺が目立っちゃうけど、そういう人達と一緒にやったYAPC::Asia Tokyo 2015だったという事を伝えたい。
2014年9月末
2014年YAPC::Asia Tokyoを終えたばかりのyusukebe氏からの連絡で諸事情により2015年のYAPC運営はやらないと伝えられる。こんなイベントの運営は酔狂でやることはあっても、義理でやってはいけない。これが仕事だったらまた別だけど、特に給料ももらってないのにこんなイベントの運営をするということは得るものも多いにしろ、決して楽な仕事じゃないし、強制されるようなものではない。「降りる」ということはもうそれ以上追求してはいけない。あとは次善の策を練りに走り回るのみ。
2014年のコアスタッフを招集。自分が主催をやらない、というオプションも検討してみたが現実的に無理そうだったので、前年のコアスタッフの中でやれる人はそのまま続けてくれるようお願いし、足りない分は前年の間に主要な任務を担当した人をさらに追加してお願いした。
Slackを設定、使えそうなので即座に課金。
2014年10月
「もうそもそもやらない」「再来年くらいまで待つ」「何も起こらなかったフリをしてなんとか2015年も同じ感じでやる」というような意見が出る中、僕は「JPAに(金銭的な)体力があり、自分にまだ最後のやる気がある今のうちに最後大花火をぶち上げJPAによるYAPCを伝説とさせたところでそれを一つの区切りにする」と主張した。
同時に、どういう形になるにしろデカい箱は用意しなければならないので、とにかく必死にあちこちのツテを頼って会場探しを開始した。そして当然条件に合う物件はほとんどない。パシフィコ横浜等がよさそうだったけど「え?2015年?2016年じゃなくて?」と「そうですよね〜無理ですよね〜」としか返せない対応。実はビッグサイトも当初は同じ対応で、一応どこかでキャンセルが出たら教えてくださいとだけ伝えてあった。これら以外の候補も含め、あちこちの会場に足を伸ばして見学した。
月イチのコアスタッフミーティングをこの頃に始める。
2015年に円ドル為替が120円以上になりそうな予感ではらはらしはじめる。
2014年10月末
キターーーー!ビッグサイトからキャンセルが出た連絡、キターーーー!方向性の見解統一のあと、ほとんどその場で仮予約+仮予約用料金を支払い。
会場が決まるということは会期日程も決まるので、その場でまず宮川さんに「トークとかしないでもいいけどそのタイミングで日本にいてください」指令、快諾をもらう。同時にBrad Fitzpatrick、Larry Wall、CONBU、カメラマンの八木さんにもスケジュール調整の打診。
ほぼ同時に他の類似カンファレンスの誰にも先に日程をアナウンスされないようすぐさまデザイナーにティザーサイト作成を依頼し、即座に公開。もう後に引けなくなる。
2014年11月〜12月
サイトおよびスポンサー用の資料を作る時間。ここでスポンサーメニューをとにかく作り込む。コスト計算をしつつ、それに見合う収入を得るためにはここでスポンサーメニューを作り込むしかないのでここは重要。
色々逆算して タスクを出し始める。ロゴ、本番サイト、スポンサー用資料等のデザイン等もガンガン発注。
来て欲しいゲストはツテがある人もない人もとにかくとりあえず予定を調べるために連絡。実はものすごいネット界の大物も候補にいたのだが、交渉の結果予定が合わずにバラしとなった。
これまでにない集客を見込むので、チケットの売れ行きが心配になる。販促企画をuzullaさんに託す。銅鑼パーソンのように身になった企画もあったが、最終的にチケット売上が素晴らしかったのでお蔵入りになりかけた企画も…
一部早めのスポンサーめぐり。
海外ゲスト用に「Guide To Invited Guests From Abroad」、万が一海外のスポンサーが付く時のための「An Introduction For Prospective YAPC::Asia Tokyo 2015 Sponsors」等の資料も作る
場所が場所なのでホテルがないとスタッフは当然辛いし、一般客も辛いはずなので旅行代理店に相談してホテルを抑えてもらう。
2015年1月
スポンサー候補に面会の連絡を出しまくる。さすがに完全なコールドコールはしないものの、スポンサーしてほしい回社内であれば、ほとんど面識のない人にもメールアドレスさえ手に入れられればとにかく連絡しまくった。アポを取り、説明の機会を設けさせてもらう。
懇親会、コーヒー、弁当の心配をしはじめる。懇親会は二転三転し、本当は300人くらいでやろうと思っていたのを、会場のまわりにあまり飲める施設もないのでフルパワーで700人入る会場を借りるように変更する。もっとスポンサーを取る事を目指す。
2015年2〜4月
スポンサーめぐり。 フィードバックを元に少しずつ企画をブラッシュアップ。決まっていくスポンサー枠、企画からタスク・発注開始。スポンサー申し込みは3月末で基本的には終了。そこから予算がより現実味を帯びたモノになっていく。
それまでもずっと相談していけれどもそろそろ個人スポンサーのノベルティを決めないと…! そろそろスタッフに渡すTシャツおかを決めないと…!
ボランティアスタッフ募集。CONBUと軽く相談、スタッフ数等の調整。ホテル申し込み受付。
2015年5月
スタッフ顔合わせ。最終的にCONBUも含め90人近くになってしまったので一回で集まるのは無理だと判断して2回にわけて顔合わせした。顔合わせしないでも別にイベントは運営できるんだけど、ボランティアスタッフがイベントその日だけに集まってすぐ解散すると関係性を作るチャンスも何もないのでつまらないんじゃないかと思って必ず顔合わせと打ち上げは集まれるだけ集まってもらうようにしている。
2015年6〜7月
正直覚えてない。YAPC::NAいったりOSCON行ったりしている間にスタッフに色々託したりなんだり。
2015年8月
とうとう今月じゃん!最後の最後の発注いろいろ。慌ててもしょうがない 。そして本番へ…!
実際にYAPC::Asia Tokyo 2015がどうだったかはこちらのブログまとめ、gihyoスペシャルレポートやTogetterまとめをどうぞ!
終了後、ぼろぼろになりながらサイゼリヤおよびチムニーで軽くうちあげ+夕飯、あとはもう歩く気力さえなくタクシーで帰宅。夜は興奮してうまく寝付けずストーカーのようにあがってくるYAPC::Asia Tokyo関連のブログ等をチェックしまくった。
というわけで終わった。もう明日起きても「ああ、来年の会場を今決めなきゃ…」などというプレッシャーはない。Slackのアラートもほとんどならない。幸せだ。YAPC::Asia Tokyoの運営は楽しかったけど、とりあえずは惰眠をむさぼりたい。
来てくれた皆様、最後に拍手をしてくれた皆様、ありがとう。将来の話に興味のある方は是非連絡をいただければと思います。